高齢者医療と政治

少々過激な文章となるが覚悟して読んでもらいたい。

人生の末期になって、もし仮に大病を患いその全快のためか延命
のために、余生が闘病生活となる場合を考える。
この様な場合、現代医学に選択肢はなく、患者を闘病生活に送り
込むのが使命であるかのように手術や投薬での回復の確率を説明する。

患者は、残された少ない余生を病院のベッドで医療に専念し、再び
健康で長生きができると信じて同意する。

しかし、この闘病生活はその人の余生の最も大切な時期を奪って
いること気付いていない。

特にガン治療はその部位や程度にもよるが、多かれ少なかれ後遺症
が起こり、しかも完全治癒とはいかず再発の脅威にさらされながら
余生を送ることになる。

医者は治療の過程や後遺症、再発の危険度など十分に説明している
のだろうか?

つい最近まで、本人にガンの宣告すらせず、家族にのみ説明して、
家族の同意のもとに治療が続けられるような場合も多く見られた。

これでは、家族は生きていてほしいから、少しでも延命が可能な
方法を依頼するにきまっている。
本人の意思ではなく、周りの人間が本人をベッドに縛りつけて自由
を奪っているように思えて仕方がない。
自分の人生に十分満足していて、仮に闘病生活をするよりも余生を
充実して過ごしたいと考える人は少なくない。

人生にやり残したことがあって、闘病生活であってももっと生き
たいと思う人もいるし、自分の寿命を悟って、あるがままにその大病
を受け入れ、特に積極的な治療を望まない人も多い。

人間は永久に生きられる生物ではない。
また、人間ほど生きている意味や自分の生について考える生物もいない。
自死ができるのは人間だけである。

本人が望まない、延命治療は人間の尊厳を奪うものであることを提言しておきたい。