『参政党は学んで行動する本物の政党』

■ 『参政党は学んで行動する本物の政党』

文責:アドバイザー 小名木善行

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夏目漱石の『草枕』の冒頭にある以下の文章は、学生時代に先生から暗誦させられた記憶を持たれる方も多いのではないかと思います。

「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智ちに働けば角(かど)が立つ。
 情(じょう)に棹(さお)させば流される。
 意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。
 とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高(こう)じると、
 安い所へ引き越したくなる。
 どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、
 詩が生れて画(え)が出来る。
 人の世を作ったものは
 神でもなければ鬼でもない。
 やはり向う三軒両隣(りょうどなり)に
 ちらちらするただの人である。
 ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、
 越す国はあるまい。
 あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
 人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」

この滑り出しは、まったく日本的な感覚です。
身近な肌感覚を大切にしているからです。

現代は違います。
「世界政府」という極端な極大と、「個人主義」という極端な極小にばかり誘導されています。
けれど、本来人は身近な人たちと共同生活するものです。
「何を言いやがる。ワシはひとりで生きているんじゃい!」と強がってみても、その人が身につけているものの、どれひとつとっても、自分で作ったものなどありはしない。
個人主義といわれる米国だって、実は圧倒的多数の保守派の人たちが最も大切にしているのは、自分より家族です。
だいたい世界政府だの個人主義だのといって、現実味のない極端な事柄で人々の人心を惑わすというのは、たいてい裏に何か別に意図があるものです。
そうしたものに乗っかって、たとえ一時的になんらかの利益に預かれたとしても、その利益さえ、後に巧妙にすべて奪われます。
あたりまえです。
自分に主体性がないからです。
世界政府なんて、そもそも非現実的です。
そもそも国や民族ごとに、気候風土も生活習慣も違うのです。
早い話、お隣のお宅と我が家でさえも、生活習慣も家風も違う。
まして国や民族が異なれば、その考え方は大きく異なります。
日本のすぐ近くには、不正や賄賂によって特定の人たちに便宜を図ることが正しいこととされる文化を持つ国があります。
そんな連中と日本人が同居するようになるとどうなるか。
思いやりがあってまっとうな人のほうが割りを食うのです。
つまり日本人が損をする。
わがままな人は、自分がわがままであることをいけないことだと思っていないのです。
一方、わがままでない人は、自分を押さえようとします。
するとどうなるかというと、わがままな人の天下になるのです。
普通の社会生活においてもそうです。
強引で嫌な奴で、うるさ型の人のほうが、意外と存在感があるものです。
周りがその人に気を使うからです。
それが、民族性として、輪をかけた我儘人が日本に大量にやってくれば、やさしさや思いやりをもつ日本文化は崩壊します。
これはおそろしいことです。
ところが・・・です。
日本はかつて、人口の3分の1が外国人になった時期がありました。
平安時代初期のことです。
当時の日本は、ものの見事に豊かな国であり、かつ海洋大国として日本人が世界中に旅立つ、そんな国柄にありました。
『新撰姓氏録』によると、なんと人口の3分の1が外国からの帰化人であったとされています。
今で言ったら、およそ4千万人が外国人であるようなものです。
ご近所を見渡せば、3件に1軒が外国からの帰化人であったわけです。
ところがそんな状況にありながら、日本は平安中期には、紫式部や清少納言が活躍する、平和で豊かで安定した国柄を実現しています。
どうしてそのようなことができたのかといえば、答えは明確です。
平安時代に至る前、飛鳥時代から奈良時代にかけて、我が国が日本書紀を編纂しました。
日本書紀により、日本は、神話の昔からの日本人の理想や考え方を明確にし、これを国民教育に活かして行ったのです。
その日本の理想とは何かといえば、それが「豈国(あにくに)」です。
豈国は、よろこびあふれる楽しい国のことを言います。
そして何事につけても和を大切にし、同時に大切なことはみんなでちゃんと議論することとしました。
さらにその議論においては、絶対に相手の個人を中傷したり貶めたりしてはならない(これを「忤(さらか)ふ」と言います)ことをルールとしました。
議論は、そのテーマについてはどんなに激論を交わしても良いが、相手個人を中傷したり恨んだりしてはならない、ということを、国のルールとしたのです。
そしてどのような議論があっても、最後には「詔(みことのり)を受けては必ず謹(つつ)しめ」、つまり身勝手は赦さない。
日本に住む以上は、日本のルールをしっかりと守ってもらう。
ルールの前に、個人の身勝手を許さない。
それは遠大な理想論ではありません。
地面に足を付けた、いま、みんなが豊かに安全に安心して暮らせるようにすることに最大限の努力を払おうとする姿勢です。
こうしたことが、飛鳥・奈良時代に確立されていったのです。
日本は、民族国家(エスニック)を目指した国ではありません。
よろこびあふれる楽しい国であるために、国の形を「知らす」国と定め、知ることを大切にして、知識や情報が正しく人々に伝わるようにしたのです。
これを「シラス(知らす、Shirasu)」と言います。
つまり「知ること」が、権力(ゲバルト)に勝るということを、国是としたのです。
これは、別な言い方をすれば、似ている言葉が「ペンは剣よりも強し」というものです。
でも、意味がちょっと違います。
権力を壟断して、どこかの国の言いなりになったり、国民の富をどこかの国へと流出させたり、誰もそんなことが行われていると知らなければ、儲かるのは一部の人だけです。
けれど、そうしたことが行われると皆が知ったら、社会そのものが激変していくのです。
いま、これをやろうと立ち上がったのが参政党です。
平安時代頃まで、日本は、チャイナや東亜の人たちから、蓬莱山とか、東瀛(とうえい)、方壷(ほうこ)と呼ばれていました。
この三つの用語を合わせて「東方の三神山」といいます。
他にも扶桑の国とも呼ばれました。
どれも、理想国家、理想社会を実現した国という意味です。
他国から見た日本は、まさに神々の国だったのです。
そしてその神々とは、他の誰でもない、生きている日本人のことを指したのです。
日本は、かつてそういう国を築くことができたという経験を持ちます。
そしていま、日本はまさに壊れそうになっています。
いや、もうすでにほとんど壊れてしまっています。
でもいいんです。
壊れたら、またつくればよいのです。
それをするのが参政党です。
そして参政党は、その名の通り、参加した皆様が主役となって政治をつくる党です。
特定の誰かの懐を肥やすためではない。
参加したみんなが、いまよりもすこしでも豊かに安全に安心してくらせるように、みんなで学び、みんなで考え、みんなで行動する党です。
そんな政党、これまでありましたか。
ひとつもないです。
だから参政党です。
いま、選挙期間中です。
鬼滅隊による、日本の鬼退治が始まりました。
その鬼滅隊(参政党)に力を与えるのは、みなさまです。
共に頑張りましょう!!
日本をかっこよく!