“教育の効率化”への警鐘

「文系学問はなぜ重要か?」

ノーベル物理学賞・梶田隆章61歳が語る
「文藝春秋」編集部 2020/03/20 11:00
「このまま基礎科学研究が衰退してしまっては、日本は最終的に“三等国”に成り下がってしまうのではないかと危惧しています」
そう警鐘を鳴らすのは、2015年にノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章氏(61・東京大学宇宙線研究所所長)だ。
「文藝春秋」4月号で、作家・数学者の藤原正彦氏(76)と梶田氏が日本における大学研究や教育の現状について語りあった。

話題は高校教育へ

梶田氏が指摘したのは、多くの高校で早くから大学受験のために「文理選択」がおこなわれているということだった。早期に進路選択をさせることで、子供達が幅広い分野に興味を持つ機会を失っていると言う。
「理系と文系はそれぞれが独立したものではなく、お互いに補いあう立場にあるのではないでしょうか。(中略)理系の世界では『AであればBである』というはっきりとしたことが言えますが、人間の世界はAであっても必ずしもBとなるわけではない。文系の学問の少なくともその一面は、様々な面から人間社会や人間そのものについて理解していこうという取り組みですよね。その営みの姿勢、重要性を忘れちゃいけないんじゃないかと思うんです」(梶田氏)

“文系的なもの”から科学が生まれた 

それを受けて藤原氏は、文理の“補完性”についてある例を挙げた。
「文系と理系が互いに補完的な役割を果たし、社会にとって重要な変化が生まれたという例があります。ヨーロッパで起こった『ルネサンス』以降の流れです。まずは14世紀から16世紀にかけて、ギリシア・ローマの文化を復興しようという動きが起こり、思想、文学、美術などで新しい文化が生み出されていきました。それを受けて16世紀に『宗教改革』、そして17世紀にはニュートンなどによって『科学革命』が起こり、18世紀からは『産業革命』の波が一気に押し寄せました。文系的なものから科学が生まれ、科学から技術が生まれたのです。文系と理系のどちらが欠けても、社会は発展していきません」(藤原氏)

“役に立つ勉強”に偏ることの危うさ

文理選択など教育の「効率化」からも分かるように、近年の日本の小学校から大学までの教育は「社会に出て役に立つ人材」を育てることが重視されている。例えば小学校では2020年度から英語教育やプログラミング教育が必修となる。こうした傾向に藤原氏は危機感を抱く。
「一見何の役にも立たなそうな基礎科学、文学、芸術などに取り組むことが出来るのが人間の“高貴”なのです。こういった普遍的価値とでも言うべきもので人類に寄与した国だけが、世界から尊敬されます。経済効率一辺倒で、役に立たないものを軽視するようでは、日本は『国家の品格』を失ってしまうということを認識すべきと思います」(藤原氏)
他にも、競争を重視する科学研究の問題点、梶田氏が恩師の小柴昌俊氏からかけられた“ある言葉”など梶田氏と藤原氏が日本の教育の問題点を指摘した対談「 このままでは『三等国』になる 」全文は、「文藝春秋」4月号、「文藝春秋digital」に掲載されている。
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(「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2020年4月号)

My Comment

教育の本質論について、両氏の意見には十分納得できるところがある。
しかし、現実には政治を握る権力者が、非論理的、非科学的な議論で政策が決められていくことのほうが問題である。
簡単に憲法解釈を替え、思うような明治政府の富国強兵にも似た方向へ突き進む自民党の変質に今こそ国民は気づくべきだ。
戦後の復興期から経済的にも科学技術においても他国を1歩も2歩もリードしていた時代には、国民すべてが中流意識を持ち、物つくりの超一流国となったにもかかわらず、バブルがはじけてしまった。この時代に政治家と資産家、大企業が国の在り方を誤り、経済成長一辺倒、効率化と人件費の節減を目指し、国民のための公共インフラさえもケチって民間にゆだねるようになったため、大都市集中が起こり、地方の衰退がはじまった。
そして再び、京都議定書のような科学者が誰も納得しないCO2温暖化の無理難題を押し付けられて、毎年この対策のために過去の国民資産を放出してきた政治家、企業家が今日の日本を3流国へ押し下げてしまった。
科学者は真実のみが正義である。その点この国の政治家の議論には様々な支持者の思惑があって、科学的に正しくとも政治でゆがめられた風評をあおる政策であると言わざるを得ない。
CO2温暖化説やダイオキシン問題、原発の再稼働、石炭火力の悪者扱い、プラスチックは燃やすな等々すべて科学的根拠に乏しい政策を押し付けるような社会にあって大切なのは、文系のような教育ではなく、はっきりとした真実という正義の存在する学問のみが必須であり、英語教育や社会科や国語の文系教育はむしろ百害あって、あたらしい社会を生み出す力にはなりえない。
大学も資格を取るための学歴であることで大学教育を行っている限りいずれ社会的なリーダーとなれる人間は育ってこない。
現在の文科省にはそのようなビジョンも、日本の教育の進むべき哲学も何もないのが現状である。過去にノーベル賞を受賞した日本人の大部分は科学者である。優秀な科学者は、理系のような真実のみが正義である世界で仕事をしてきた人たちである。科学立国を目指さなければ資源のない日本の将来は誠にはかない現状である。今こそ教育の充実こそが求められている。15年ほど前に、独立行政法人とされた国公立大学・高専への交付金が毎年削減され、すでに当時の15%以上も削減されてきた。大学行政法人の運営はそれぞれであるが結局すべてが文科省に握られているために、声を上げられないのが実情である。