鉄道そのものが文化遺産

川村湊が掘る JR赤字路線問題

北海道新聞 2018.01.19 朝刊より
作家らしい視点からの提言である。心して精読してほしい。

JR北海道の赤字路線の存廃問題が議論されているが、そこからこぼれ落ちていることを指摘しておきたい。鉄道は単に人とものを運ぶ運輸・交通の手段ではない。それ自体の存続を目的とする文化遺産である。このことの認識が欠けた議論は、発展的なものとならない。
 鉄路、駅舎、トンネルや鉄橋などの施設、駅弁や売店、駅前の風景を含めてトータルな文化遺産であり、多くの文学作品、映画、歌謡曲が創造された。鉄道の存在と切り離して日本の近代文化は語れない。志賀直哉の『網走まで』、三浦綾子の『塩狩峠』、村上春樹の『羊をめぐる冒険』などの名作や、また、西村貫太郎、島田荘司などの鉄道ミステリーも、忘れられない。
新雪に覆われた流氷の海を眺めながら、ひた走る釧網線、熊笹と潅木の野を突っ切って行く宗谷本線、あえぐように峠やトンネルを越える石北線、カニと昆布の匂いや懐かしさの漂う根室線。これら貴重な線路を廃止しようという論議は、現代社会の病理である経済性と効率化(あくことなき利益の追求という病弊に棹差すものであって、利益第一主義の権化といわざるをえない。

他社が救済を

そもそもJR北海道の赤字は、国有鉄道の分割、民営化の段階ですでに予想されていた。分割の際の手切れ金の6千億円の基金の果実によって運営するという計画は、国策としての長年のゼロ金利政策で行き詰まった。一方で、JR東日本と東海は莫大な利益を年々あげている。それは各JRの努力にもよるだろうが、もともとは国民全体の財産である鉄路、施設、土地をただ同然で払い下げてもらい、一民間企業のものとしたことから始まっている。赤字とわかっている北海道や四国を切り離し、もうけだけを取る経営者は、倫理的に退廃している。
JR東日本は、1昨年の純利益約2500億円(以上)をJR北海道の鉄道事業の赤字の穴埋めのために使ってもバチは当たらないはずだ。存廃が議論されている路線を丸抱えしたって余裕綽綽である。JR東海は、あまりにもうけすぎなので、リニアモーターカーの新・新幹線の建設に9兆円も使うという。1昨年の純利益は4千億円近く。そんなに余裕があるなら、「のぞみ」の料金を値下げするとか、北海道や四国を救済しようという「鉄道は一家、JR皆兄弟」の考えにならないのか不思議だ。株主配当で利益を得るのは、国庫や大銀行や証券会社だ。
 もともと国有鉄道であり、分割が失敗だったのだから、もとの国鉄に戻るか、せめて東日本や東海が赤字企業(北海道、四国)を吸収・合併して、鉄道という文化遺産そのものを守ろうとしないのは、本来、国民全体の公有財産であり、歴史的、文化的な遺産という価値観が欠けているからだ。いま一度、日本全国の鉄道網というトータルの視点から、赤字路線をどうするか考えればいいのだ。

脱・効率優先

これはJR間の格差の問題だ。利益は再配分されなければならない。それを行うのは、民活だと称して国鉄を解体し、おいしいところだけを掠め取っていった運輸族の政治家と財界人の責任である。高速道路の建設には金に糸目をつけないのに、こと鉄道になると自助努力や、各路線ごとの採算などを言い出すことに合点がいかない。細かく切り刻んで収支を計算すれば、赤字になるのは決まっている。
JR北海道の経営者は、自分の首を絞めて、時の政府、政治家に「ベンコをふっている」(ご機嫌をとるの意味。この言葉がわからない人たちが北海道の未来を決めようとしている)のである。
北海道の有識者会議と称される委員会も同断だ。そこに効率優先主義の産業人や法律家、学者はいても、内田百閒や阿川弘之や宮脇俊三や原武史のような鉄道をこよなく愛する文化人は一人もいない。
北海道の地上を走っている区間はまだわずかなのに「北海道新幹線開通」などと銘打つインチキや、最初から維持困難路線などと廃止を前提とした名目で議論している滑稽さに、JR北海道は気づくべきだ。そして堂々と函館(新青森でもよいが)から稚内までの新幹線の建設、整備を国にすべからく要求すべきだ。
安倍晋三首相や麻生太郎元首相の地元を中心とした中国、九州の近代産業遺跡界遺産になったのだから、北海道の開拓に寄与した鉄道網が世界遺産にならないはずがない。世界遺産を維持、保護するためにJR東日本、東海のもうけすぎの利益のほんのわずかを融通するだけでよいのだ。どうして道やJR北海道の関係者はそれを要求しないのだろうか。
経済性と効率化の過度の欲求が古くは拓銀の破たんを招き、危険な原発の乱立を許した。一部の人間の利益のために多くの人が苦しむような暴挙を繰り返してはならない。
雪に埋もれた稚内の街を見てきた。日本最北端の宗谷本線の終着駅。ここから先、鉄路はない。外部につながる線路がなくなれば、この町は開拓以前の曠野に戻るかもしれない。文化のなくなろうとする町に、明日はみえてこない。海鳴りだけが、怒号のように、悲鳴のように防波堤ドームに響くだけなのである。

(かわむら・みなと=文芸評論家)