票欲しさに我田引鉄

JR北海道廃線問題

北海道新聞は地元北海道の鉄路存続について、過去の国鉄民営化の経緯を調査し記事として道民を啓蒙しているので、あえてその記事を参照させていただく。決してJRの生き残り策を道民は認めてはならない。

「民営化」の幻想=揺れる鉄路第1部>4

道新01/03 09:46

わずか11年の短命に終わった鉄路がある。釧路管内白糠町内を走っていた旧白糠線の上茶路―北進間(8キロ)。北端の北進駅(同町二股地区)跡地は1983年の廃線後、線路やホームが撤去され、草むらを雪が覆う。「もっと北へ延伸を」。そんな願いを込めた駅名を思い起こすものは、何もない。
「乗った記憶はほとんどないよ。いつの間にかできて、あっという間になくなっちゃったなあ」。廃線後、代行バスの運転手を務めた地元の及川信一さん(69)は振り返る。
白糠線は「政治路線」の代表例だ。すでに沿線の炭鉱は閉山していたにもかかわらず、道内選出の自民党衆院議員、佐々木秀世氏(故人)は72年7月、運輸相に就任すると、北進駅までの延伸を認可した。橋やトンネルは総工費16億円をかけて建設された。
国鉄が64年度に単年度赤字に転落し、政府は不採算路線の見直し方針を打ち出したはずだった。実際、道内で札沼線新十津川―石狩沼田(空知管内沼田町)間が72年6月に廃線となった。
ところが、白糠線延伸が決まったのは、その翌月。著書「日本列島改造論」で「赤字線の撤去で地域産業が衰えれば、国家的な損失だ」と主張した田中角栄氏(故人)が同年7月に首相に就任し、再び拡大路線にかじを切ったからだ。
地方路線の建設が「票」になる時代。与党政治家は自らの選挙区への路線誘致を競い合い、「我田引鉄」とやゆされた。
全国の路線はピークの81年には2万1千キロあまりに達し、国鉄発足(49年)から32年間で約2千キロ延びた。その間、国鉄の借金は膨らみ続け、分割直前の86年度末では25兆1千億円、当時の一般会計予算(54兆円)の半分に迫った。

政治の干渉 負担押し付け債務増大

旧国鉄債務が雪だるま式に増えたのは、路線新設ばかりが原因ではない。大きかったのは人件費だ。
戦後、国の方針に基づいて満州鉄道から引き揚げてきた元職員を大量採用し、従来の国鉄職員と同等に処遇した。職員数は1947年度には61万人。多くが定年を迎えた70年代以降、年金や退職金が経営を圧迫した。
高度成長期には物価上昇が加速したが、国鉄の運賃改定は、77年の法改正で認可制に変わるまで国会の議決が必要だった。選挙への影響を恐れる与野党は値上げを渋り、運賃改定法案は幾度となく廃案になった。
とどめを刺したのが新幹線の建設費だ。東海道新幹線、山陽新幹線、東北新幹線の建設費として総額約3兆9千億円が国鉄債務に上乗せされた。
その時の政権や与党政治家が、国鉄を「財布代わり」に利用し、過剰な負担を押しつけてきたのが実態だ。政府の国鉄再建監理委員会は85年7月、中曽根康弘首相に提出した最終意見書で「国鉄経営は外部からの干渉を招く余地があった」と認めた。ただ、巨額負債の原因については「赤字に対する感覚が希薄な親方日の丸意識と無責任経営」と決めつけた。
「政治の責任」を考える上で、格好な資料が残っている。国鉄分割を翌年に控えた86年5月22日、北海道新聞などに載った自民党の意見広告。「国鉄が…あなたの鉄道になります」と題し、甘い言葉が並んでいた。「ローカル優先のサービスに徹します」「ご安心ください。ローカル線(特定地方交通線以外)もなくなりません」
特定地方交通線とは、80年に施行した国鉄再建法に基づいて廃止を含む見直し対象とした全国83線、3157キロを指す。道内でも22線が廃止もしくは 第三セクター に転換された。意見広告は、それ以外の路線を断固として守り抜く決意を、有権者に示すものだった。
車いすで生活し、高波被害を受けて現在は運休中の JR日高線 を日常的に使っていた日高管内新ひだか町の広田美喜子さん(54)は昨年、路線を守る会の活動の中で、この広告を知った。JR北海道が廃止方針を打ち出した現状と「まったく違う」と嘆く。
道内選出の与党国会議員は昨年3月、鉄道を含む道内交通網の在り方を検討する「北海道総合振興に関する勉強会」を始めた。
座長の武部新衆院議員(46)が同11月、北海道新聞のインタビューに答え、「路線を維持することが大原則」としながらも、「(路線維持の)お金は国が全部出すわけにはいかない。まずはJR北海道が経営改善努力をしなければ」と主張した。
巨額の建設費が動く道路や空港、港湾の整備と違い、鉄路維持に関わろうとする政治家の動きは見えにくい。我田引鉄の時代は、遠くに過ぎ去ったようだ。

  • <証言> 自民 分割で責任放棄 

    元衆院議員・小林恒人氏(78)=国労出身
    当時、政府・与党との国会論戦に備え、国鉄の歴史も勉強しました。終戦後、国鉄は満州鉄道の元職員を積極的に引き受け、前職の職歴を加味して処遇し、未納分の年金まで支給しました。当時の政府の判断ですが、これでは経営が行き詰まるのは必然でした。与野党議員で路線建設の是非を議論する鉄道建設審議会の委員も務めました。かつての与党は、鉄道を自分の選挙区に建設する利益誘導が露骨でした。
    国鉄が破綻した原因の多くは、政府の政策にありました。「分割民営化」でバラバラにして、責任を棚上げするのが自民党の真の狙いだったと思います。
    ただ、国鉄改革を巡る国会論戦は私の人生にとっては、最大の舞台でした。当時の橋本龍太郎運輸相(故人)は、自身のサインをした国鉄改革法案の写しをくれました。記念として、今も大切に保管してます。